2014年 11月 29日

公演情報

H27年上半期自主公演(梅若会定式能・梅流会)予定をアップしました。
# by umewakanohtheatre | 2014-11-29 16:25 | 更新情報
2014年 11月 22日

公演情報更新

平成26年下半期公演予定情報を更新しました。
# by umewakanohtheatre | 2014-11-22 12:17 | 更新情報
2014年 08月 15日

平成26年下半期公演予定

チケットは梅若会事務局にて販売しております。

印は(公財)梅若会でチケットを随時うけたわまっております。チケットのご予約はおよそ公演一ヶ月前となります。メールでのお申込みの場合、ご住所、連絡先などご明記頂きお申し込み下さい。チケットと請求書を送付致しますので、請求書に記載されております銀行口座にチケット代金と送料を後日お振込み下さい。

*普通郵便での送付では一律100円 簡易書留などの場合はかかりました郵送料を頂きます。

*各公演の出演者、曲目等に変更がございました場合にはご了承下さい。また、許可のない録音、写真撮影等はお断り申し上げます。

*ロビーにて軽食、コーヒー、ケーキ等の販売がございます。是非皆様ご利用下さい。(午後1時開演の場合は12時オープン)


12月定式能 チケットは梅若会事務局にて予約受付中です。





平成26年下半期梅若会定式能



10月梅若会定式能 研究公演 チケットは梅若会事務局にて販売しております。
 ※研究公演は入場無料公演です。研究公演終了後は定式能のお客様と全席入替となりますのでご注意下さい。






11月別会能 チケットは梅若会事務局にて予約受付中です。なお、座席はお申し込み多数の場合、ご希望に添えない場合もございますのでご了承下さい。ご予約頂きましたチケットは10月16日(木)より順次発送致します。




梅流会 チケットは梅若会事務局にて販売しております。




7月梅若会定式能 研究公演 チケットは梅若会事務局にて販売しております。
 ※研究公演は入場無料公演です。研究公演終了後は定式能のお客様と全席入替となりますのでご注意下さい。




# by umewakanohtheatre | 2014-08-15 14:31 | 平成26年(2014)下半期公演
2013年 08月 29日

ようこそ!梅若会へ


は、鎌倉時代後期から室町時代初期に完成を見た、日本独自の舞台芸術の一種である。現在では日本における代表的な伝統芸能として遇され、国際的に高い知名度を誇る重要無形文化財。無形文化遺産保護条約に基づく「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載されており、2009年9月に予定される初の登録での世界無形遺産への登録が事実上確定している。
自然光さす舞台の誕生
終戦後、国の復興が軌道に乗り始めた昭和24年、梅若六郎家は東中野の現在地へ転居された。戦災により厩橋の舞台が焼失し、新しい舞台の建設を何よりも嘱望されていた二代梅若実翁の強いご希望によってであった。昭和34年1月、新年会席上で舞台建設計画の発表があり、これからという矢先に実翁は病に臥され8月14日逝去された。悲しみの乾く間もなく梅若六郎先生は父親の悲願を背負い舞台建設に立ち上られたが、能楽堂建設の段階に入ったとき現在地は住宅専用地域で歌舞音曲に類するものは禁止、従って舞台建設は不可能ということがわかった。大いに困惑された六郎先生は早速東京都知事を訪問、何とか舞台の建設はできないものかと相談され、学校の教習の場として舞台を作るのなら差支えないことが判明、急據、学校設置が急浮上したのであった。 昭和35年4月、梅若能楽学院会館設置許可申請書が中野区長宛に提出され、能舞台建設は学校設置と梅若会法人化に向け進められることになった。直ちに舞台建設委員会が梅若六郎後援会を母体として発足。同年8月学校設置許可が下り、設計は大江宏氏、施工は竹中組と決まった。昭和36年8月5・6日、梅若能楽学院会館竣工記念招待能が催され梅若六郎先生は「翁」を上演され、舞台の安全と永久不動お祈念、追って10月2日梅若能楽学院会館の開校式が行われた。そして翌37年4月2日、本科13名、自由科13名の入学式が挙行され、梅若能楽学院会館の歴史の一頁が開かれたのである。

*当核法人は、国と特に密接な関係がある法人ではありません。

# by umewakanohtheatre | 2013-08-29 11:07 | 梅若能楽学院の設立
2013年 08月 29日

2013年下半期公演予定

印は(財)梅若会でチケットを随時うけたわまっております。チケット発送はおよそ公演一ヶ月前となります。メールでのお申込みの場合、ご住所、連絡先などご明記頂きお申し込み下さい。チケットと請求書を送付致しますので、請求書に記載されております銀行口座にチケット代金と発送料を後日お振込み下さい。
*普通郵便での送付では一律100円 簡易書留などの場合はかかりました郵送料を頂きます。
*各公演の出演者、曲目等に変更がございました場合にはご了承下さい。また、許可のない録音、写真撮影等はお断り申し上げます。
ロビーにて軽食、コーヒー、ケーキ等をご用意致しました。是非皆様ご利用下さい。(12時オープン)


H25年下半期梅若会定式能 チケットは梅若会事務局にて販売しております。





梅若会素謡鑑賞会 全席自由席 3,000円 チケットは梅若会事務局にて販売しております。





研究公演 ・ 7月定式能 *研究公演は入場料無料でございますが、研究公演終了後は13時開演の定式能のお客様と総入れ替えとなります。 チケットは梅若会事務局にて販売しております。





研究公演 ・ 9月梅流会 *研究公演は入場料無料でございますが、研究公演終了後は13時開演の梅流会のお客様と総入れ替えとなります。 チケットは梅若会事務局にて販売しております。





研究公演 ・ 10月定式能 *研究公演は入場料無料でございますが、研究公演終了後は13時開演の定式能のお客様と総入れ替えとなります。 チケットは梅若会事務局にて販売しております。





至高の華 安 宅 *チケットは梅若会事務局にて販売しております。





11月別会能 *チケットは梅若会事務局にて販売しております。





# by umewakanohtheatre | 2013-08-29 11:06
2013年 03月 06日

2013年上半期公演予定

印は(財)梅若会でチケットを随時うけたわまっております。チケット発送はおよそ公演一ヶ月前となります。メールでのお申込みの場合、ご住所、連絡先などご明記頂きお申し込み下さい。チケットと請求書を送付致しますので、請求書に記載されております銀行口座にチケット代金と発送料を後日お振込み下さい。
*普通郵便での送付では一律100円 簡易書留などの場合はかかりました郵送料を頂きます。
*各公演の出演者、曲目等に変更がございました場合にはご了承下さい。また、許可のない録音、写真撮影等はお断り申し上げます。
ロビーにて軽食、コーヒー、ケーキ等をご用意致しました。是非皆様ご利用下さい。(12時オープン)


H25年上半期梅若会定式能 チケットは梅若会事務局にて販売しております。





■謡初之式(入場無料)
*開演時間が午前10時に変更となりました。お気をつけ下さい。



1月梅若会定式能 チケットは梅若会事務局にて販売しております。





梅若連合会 ご招待



















梅若能楽学院発表会 ご招待






4月梅若会定式能 チケットは梅若会事務局にて販売しております。





5月梅流会 チケットは梅若会事務局にて販売しております。





6月定式能 チケットは梅若会事務局にて販売しております。




# by umewakanohtheatre | 2013-03-06 16:10
2010年 12月 30日

梅若能楽学院 学院長


56世 2代 梅若 玄祥(うめわか・げんしょう)

観世流シテ方 梅若家当主 56世梅若 六郎 二代梅若 玄祥
重要無形文化財総合指定保持者。
日本芸術院会員
日本能楽会理事
(公財)梅若会代表理事
梅若能楽学院学院長
(公社)日本演劇協会理事
能楽企画「狐陸」代表

現在、人気、実力ともに第一人者として活躍.。廃絶された能の復曲、新作能の上演も積極的に携わり、様々な演出を試みるなど、今日に生きる古典芸能としての能を支えているとともに、海外への能の紹介にも意欲的で、海外初の能面・装束の展覧会を開いたほか、アメリカ、フランス、オランダ、ロシアでも公演。ホール能の先駆者的存在でもある。また、能楽界のみならず国内外の様々な分野の芸術家達に、「幸運にも今、我々が目にすることが出来る人類の宝」の一人として崇拝され常に注目されている。

主な経歴
1948年(昭和23年) 2月16日生。本名善政、以後、景英、六之丞、紀彰と改名
1951年(昭和26年) 能「鞍馬天狗」子方にて初舞台。
1954年(昭和29年) 能「猩々」にて初シテを勤める。
1958年(昭和33年) 能「鷺」を披く。
1961年(昭和36年) 能「翁」千歳を披く。
1965年(昭和40年) 能「道成寺」を披く。
1969年(昭和44年) 能「翁」を披く。
1979年(昭和54年) 梅若六郎家当主継承。(財)梅若会理事長および梅若能楽学院 学院長に就任。
1980年(昭和55年) 能「谷行」芸術祭優秀賞受賞。
1984年(昭和59年) 能「卒都婆小町」を披く。
1986年(昭和61年) 重要無形文化財総合指定(能楽)
1987年(昭和62年) 芸術選奨文部大臣新人賞受賞。
1988年(昭和63年) 56世梅若六郎を襲名。
1989年(平成1年) (社)能楽協会理事に就任。
1991年(平成3年)  大阪文化祭賞本賞受賞。
           秘曲 能「姨捨」を披く。
1994年(平成6年)  第1回讀賣演劇大賞演出家部門 選考委員特別賞受賞。
1995年(平成7年) 「渇水龍女」復曲で松尾芸能賞受賞。
1996年(平成8年)  観世寿夫記念法政大学能楽賞受賞。
1999年(平成11年) 讀賣演劇大賞 主演男優部門優秀賞受賞。
            日本芸術院賞受賞。
2005年(平成17年) 日本能楽協会理事に就任。
2006年(平成18年) 紫綬褒章受章。
2007年(平成19年) 芸術院会員就任
2008年(平成20年)12月8日 二代梅若玄祥に改名
2014年(平成26年)重要無形文化財保持者各個認定(人間国宝)



業績
国内(演出、作調、能本補綴含む)
1983年(昭和58年) 551年ぶりに能「大般若」を復曲、上演。
1984年(昭和59年) 新作能「實朝」上演 作 宇野信夫。
1987年(昭和62年) 復曲能「生贄」上演。
1994年(平生6年)  復曲能「護法」上演。
1995年(平成7年)  460年ぶりに能「渇水龍女」を復曲、上演。
1997年(平成9年)  復曲能「当願暮頭」上演。
          新作能「伽羅紗」上演。 作 山本東次郎。
          新作能「額田王」上演。 作 馬場あき子。
1998年(平成10年) 新作能「空海」上演。 作 堂本正樹。
1999年(平成11年) 新作能「ジゼル」上演。 脚本 水原紫苑。
          新作能「夢浮橋」上演。 作 瀬戸内寂聴。
2001年(平成13年) 新作能「安倍晴明」上演。 原作 吉田喜重。
2002年(平成14年) 新作能「不知火」上演。 作 石牟礼道子。
2003年(平成15年) 新作能「蛇」上演。 作 瀬戸内寂聴。
2005年(平成17年) 新作能「小野浮舟」上演。 作 馬場あき子。
          オペラ「カーリュウ・リヴァー」初演出。
          能楽劇「夜叉ヶ池」上演。 原作 泉 鏡華。
2006年(平成18年) 新作能「紅天女」上演。 原作 美内すずえ 脚本 植田 紳爾。



主な海外公演
1989年(平成1年)  ベルギー公演「ユーロパリア・ジャパン」。同時開催:能面・装束展。
1993年(平成5年)  ニューヨーク メトロポリタン美術館公演。
1995年(平成7年)  ニューヨーク セントラルパーク薪能。
1997年(平成9年)  アムステルダム トロペンミュージアム公演。
          パリ ポンピドゥーセンター公演。
2000年(平成12年) ニューヨーク ピッッバーグ能楽座公演。
          オランダアムステルダム日蘭交流400周年記念公演。
           オランダ公演(アムステルダム市立劇場・アルクマール聖ローレンス教会)。
           ベルギー公演(ブラッセル王立美術館ホール)。
           フランス公演(パリ日本文化交流会館・リール商工会議所)。
2002年(平成14年) ニューヨーク テロ1周年追悼公演 蝋燭能。
           古典芸能と現代美術のコラボレーション。
           フランス・ベルギー・オランダ公演。
2003年(平成15年) ロシア連邦 サンクトペテルブルグ建都300周年公演。
2004年(平成16年) アーツプラン2004年 アメリカ公演。
           ボストン(ジョンハンコックホール)。
           ニューヨーク(ジャパンソサエティ)。
           アトランタ(リアルトセンター劇場)。
           ニューオーリンズ(ウエストウィーゴ劇場)。
2007年(平成19年) ニューヨーク公演 セントラルパーク薪能。 
2008年 パリ公演
2010年 ギリシャ・オランダ公演

*出版物
著書に「まことの花」(世界文化社)。写真集に「能 梅若六郎」(撮影・高橋 昇、平凡社)がある。

1980年(昭和55年) 「五十五世 梅若六郎」 著作 檜書店。
1985年(昭和60年) 「梅若能面百姿」 著作 平凡社。
           「梅若の謡」 暁教図書出版。
1998年(平成10年) 「梅若六郎能百舞台」 著作 集英社。
2002年(平成14年) 「能の新世紀 古典~新作まで」 小学館。
2003年(平成15年) 「まことの花」 著作 世界文化社。



# by umewakanohtheatre | 2010-12-30 00:00 | 梅若能楽学院の設立
2010年 12月 27日

学院案内

入学 随時入学
本 科:謡、仕舞の基礎を学び、修業年限は1~3年。
     初級、中級、上級と履修するものが定められている。
自由科:謡、仕舞どちらか片方を学ぶ
別 科:本科修了者が無制限に学ぶことが出来る

稽古日
毎週木曜日(月4回)
昼の部(午後2時ぐらいから5時ぐらい)と夜の部(午後5時ぐらいから8時ぐらい)があります。
入学の際、昼の部か夜の部かを選択して頂きます。その中でご都合の良い時間に合わせて教室に行くことが出来ます。大体お一人が謡に30分程度、仕舞も30分程度の個別指導です。

用意するもの
謡に必要なものは謡曲の教本仕舞では仕舞扇(しまいおうぎ)と白足袋
 「いろいろ必要なのでは・・・」と思っている人がいるかもしれませんが、必要なのは、謡曲の教本、仕舞扇(8000円程度)、白足袋の三セットのみ。謡曲教本に関しては、習い始めは教室や先生から借りることもできますし、仕舞扇も含め、学院で販売してますので、どちらも初日に用意していただく必要はございません。白足袋は街の呉服屋さんなどで売ってます。
 梅若能学院では1年に一回、発表会を開いていますが、その際の着物・袴も貸りてOKです。思ったより気軽に習い始められます。

入学金本科15000円 自由科 8000円 

月謝について
本 科
仕舞と謡  15000円
自由科
仕舞か謡のどちらか片方 8000円
別 科 
仕舞と謡 20000円

講師紹介
富田 雅子(とみた・まさこ)
能楽歴35年。昭和48年に梅若能楽学院に入学。54年卒業。平成2年に観世流師範に認定され17年に観世流準職分となる。
 40歳からプロになり、数々の梅若会の舞台を経験。学院卒業後は梅若教授となり、学院で指導を続けるほか、個人指導も行っている。現在も、梅若会、緑華会能の会(後援会)にて年1,2番の能を舞う。
情景がいきいきと思い浮かぶ、日本語の言葉の力とリズムを大切にする授業で、能楽の魅力を伝える明るい先生。
~主な能の舞台歴~
昭和57年「猩 々」初面
平成2年 「乱」披き
平成6年 「石 橋 大獅子」披き
平成13年 「道成寺」披き
他 「山 姥」「弱法師」「花 筐」「藤 戸」など数十番

鈴木 矜子(スズキ キョウコ)
佐賀県武雄市生まれ
東京都八王子市在住
能楽協会会員
梅若能楽学院講師
緑風会主宰

昭和36年 高尾唯吉・強(現 祥史)に師事
昭和48年 土田清(現 晏士)に師事
平成13年 五十六世梅若六郎(現 玄祥)に師事

演能歴
「葵上」 「忠度」 「山姥」 「井筒」 「藤戸」 「隅田川」 「松風」 など

寸言 : 男性による能が主流の中、女性のもつ繊細な感覚を生かし、しかもそれに力強さを加えた、究極の女性の発声法を追及する一方、相手の心に響く自然体の表現法を求めて模索し続ける毎日です。

三吉 徹子(ミヨシ テツコ)




入学したら・・・年に一度、自由参加の仕舞、舞囃子などの発表会、夏には浴衣会があり、日頃の勉強の発表が出来ます。
また、梅若会主催の定式能を学生割引で観劇できます。




# by umewakanohtheatre | 2010-12-27 00:00 | 学院案内
2010年 12月 26日

梅若家の歴史

丹波猿楽
猿楽とは、現在の能楽の元祖となるもので、丹波地方は猿楽の発祥の地とも言われ、平安時代の末期より鎌倉時代の初期に職業的猿楽師の団体があり、大きな神社・仏閣に属して猿楽座を称えていました。
丹波猿楽には、梅若のほか矢田・日吉・榎並など、猿楽座の名が記録に見えます。
近畿では、大和に丹満井(金春)・結崎(観)・外山(宝生)・板戸(金剛)があり、近江(滋賀県)・伊勢(三重県)にも諸座がありました。
丹波猿楽梅若の名が文献に出てきたのは、応永23年(1416年)3月9日の条に【仙洞に猿楽あり梅若仕る】と看聞御記に始めて出てきます。
主として院の御所での上演が主で、ほかに伏見の御香宮・醍醐の清滝宮などがあり、また名称も梅若猿楽・梅若太夫・梅若党・梅若部類などの呼び名で文書に書かれています。
仙洞御所での演能は応永年間(1425年)が最も多く、その後は地方も京都に乱れ、やがて応仁の乱となり猿楽も中止されました。
乱も治まった文明13年(1481年)正月20日、皆様にご存知の37世・梅若景久が、御土御門天皇より禁中で『蘆刈り』を舞って「若」の一字を賜り、以後『梅若』と改姓、並びに紫下白幕を下賜されたと記されています。

梅若家の先祖
梅若家の系譜は奈良朝の橘諸兄に始まります。
諸兄は、始め葛城王と称していましたが、母橘三千代の姓をつぎ、橘諸兄と呼ばれました。
その十世・友時が梅津氏の元祖で、従五位下梅津兵庫頭友時、この時より家紋橘を用いました。
山城の国梅津村住(現在の京都市右京区梅津)後に丹波の国大志麻(綾部市大志麻)に移りました。
法名『真光院殿浄雲徳行大居士』仁和4年(888年)5月3日卒となっています。
旧墓地の中央に、友時千年祭の供養碑が、明治11年・初代実によって建立されています。
現宗家、56世・六郎師は橘諸兄から計算して、56世・梅津姓を名乗った友時からでは、47世となります。その頃は、梅津の梅宮に仕えておられ、丹波綾部領大志麻では七万余石を領する豪族となり、地方に出たとは言え、系図によれば官位や役職が見えます。
丹波へ行った梅津の人々が、何時頃から猿楽を始めたか、定かではありませんが、前に述べましたように室町時代には、丹波猿楽の梅若の名が文献に出現しております。


初代梅若実・52世梅若六郎
文政11年1828年4月13日、日光山御門跡輪王寺北白川宮御用達の鯨井平左衛門長男として、神田銀町に生まれる。幼名は亀次郎。
天保7年(9歳)望まれて51世梅若六郎氏晹の養子となる。
天保10年(12歳)家督を相続する。
嘉永2年(22歳)江戸城本丸詰めを命ぜられ、月20人扶持を受ける。
嘉永6年(26歳)妻峰子を迎える。六郎と改名する。
安政4年(30歳)長女津留子が生まれる。
慶応元年(38歳)自宅に杉の板割2間4方・橋掛り1畳半の敷舞台を設ける。
毎月3回、10の日に月並稽古能を始める。観世銕之丞の弟源次郎(のちの観世清之)を養子に迎える。
慶応4年・明治元年(41歳)朝臣を願い出る。暫く休んでいた稽古能を復活する。長男万三郎が生まれる。
明治2年(42歳)稽古能に囃子を入れる。
明治3年(43歳)稽古能に始めて装束をつけ「弱法師」を勤める。稽古能を毎月6日・21日に定める。これまで木綿の萌黄五風呂敷を揚幕に代用していたが見かねた見物連に贈られた絹五絽のものを使う。
明治4年(44歳)青山下野守の舞台を譲り受け、厩橋に建てて舞台開きに「翁」を勤める。
明治5年(45歳)晴天10日の日数能を催す。実と改名し源次郎に六郎をつがせる。
明治6年(46歳)前年通り日数能を催す。始めて新聞に別会・追善能の広告を出す。
明治7年(47歳)前年通り日数能を催す。金剛流と合併能を催す。
明治8年(48歳)家祖忌追善能を催す。
明治9年(49歳)岩倉具視邸における始めての行幸啓能に「土蜘」を勤め、この際宝生九郎を推挙する。3日間の日数能を催す。
明治10年(50歳)前年通り日数能を催す。招魂社(現靖国神社)舞台の陸海軍省御用能を勤める。
明治11年(51歳)前年通り日数能を催す。次男竹世(のちに二代実)が生れる。宮内省より御能御用達を命ぜられる。青山大宮御所舞台開き能を勤める。招魂社御用能を勤める。万三郎に分家筆頭の吉之丞家を相続させる。
明治12年(52歳)前年通り日数能を催す。前田邸行幸啓能・靖国神社御祭能・アメリカ前大統領グラント馳走能・家祖350年祭能などを勤める。青山大宮御所能を勤め、この際桜間伴馬(のちの左陣)を推挙する。
明治13年(53歳)東照宮謡初めを勤める。2日間の日数能を催す。
明治14年(54歳)5日間の日数能を催す。芝能楽堂舞台開き能を勤める。次女花子(後に観世華雪の妻はま子)が生まれる。
明治15年(55歳)前年通り日数能を催す。
明治16年(56歳)始めての外人出弟としてアメリカ人モースとフェノローサが入門する。3日間の日数能を催す。
明治17年(57歳)六郎に財産を譲る。一六の日(当時の休日)に早朝からの稽古を始める。
明治18年(58歳)前年の通り日数能を催す。
明治19年(59歳)前年の通り日数能を催す。亡父33年追善能を勤める。
明治20年(60歳)先祖千年忌能に「鷺」を勤める。
明治21年(61歳)還暦及び梅若家の家督相続50年を祝う。
明治22年(62歳)憲法発布祝能を勤める。3日間の日数能を催す。
明治23年(63歳)前年通り日数能を催す。日光東照宮大祭能を勤める。これまでの月2回の稽古能のうち、1回を観世家に譲る(のちに第3日曜日となる)。
明治24年(64歳)六郎の懇望により竹世の順養子願済みとなり、その祝能を催す。
明治25年(65歳)招魂社大祭能を勤める。葉山滞在中の英照皇太后に召され宝生九郎(先代)などとともに仕舞を勤める。
明治26年(66歳)土方邸行幸啓能を勤める。靖国神社大祭能を勤める。
明治27年(67歳)葉山御所敷舞台開きを勤める。関西へ行き西京能楽堂初日・西本願寺先祖見真大師祭能・大阪表能などを勤める。
ドイツ帝室唱師ミニ・ホーク招待能を勤める。
明治28年(68歳)六郎実家に戻る。竹世に家督を相続させる。
明治29年(69歳)先祖追善能を催す。伏見宮邸行幸啓能を勤め、明治天皇御製「成歓駅」節附を仰せつけられ、独吟する。
明治30年(70歳)古稀祝能に「菊慈童」を勤める。
明治31年(71歳)京都へ行き豊国神社300年祭能を勤め、その2日目に皇后陛下御歌「平壌」を独吟する。再度来日したフェノローサの稽古を復活する。
明治33年(73歳)竹世に六郎をつがせる。祖先祭能を催し、第2日目に「関寺小町」を勤める。
明治34年(74歳)一六稽古の250回祝を催す。
明治35年(75歳)清国皇族載振馳走能を勤める。
明治38年(78歳)旅順大勝利祝賀能に「木曽」「石橋」を勤める。観阿弥5百年祭能に「鷺」を勤める。
明治40年(80歳)竹世の長男亀之(現 六郎)が生まれる。稽古能の750回記念能を催す。
明治41年(81歳)金婚式を祝う。
明治42年1909年(82歳)1月19日に病没し品川の海晏寺に葬る。辞世に「此翁いづくへ参らうれんげりや他へはゆかじ梅若の家」
「裸体にて此世へ出て得た宝我物あらじ皆置て行く」の和歌2首を残し、戒名は梅霊院若誉実心居士と名づけられる。

2代目実・54世梅若六郎
初代実の三男として明治11年4月28日に生まれ、53世六郎(姉婿)の準養子となり家督をつぐ。
初舞台は同15年天覧能で実父の「善知鳥」の子であった。
一六の稽古など厳しい薫育を受け、兄万三郎とともに名声富に高かったが、明治初期からの観世家との葛藤は大正10年、兄万三郎を宗主として銕之丞と共に梅若流を樹立するに及び、万六銕の黄金時代を築いて時の能楽界を風靡した。
昭和3年万三郎の還暦と舞台新築を機に家元を継承、以後不屈の闘志で流儀の維持と伸展に一生をかけた。
その間、兄万三郎が観世流に復帰し能界の孤児となったが、今は一般化した薪能、大衆能、劇場能、婦人能など先駆け、梅若謡本の完成、機関誌「梅若」の発刊、流儀の伸展は遠く満州大陸に及んだ。
同19年家督を長男亀之に譲る。
22年70歳で「道成寺」を舞い、23年二世実を称して隠居。30年芸術院会員となる。
同年東京観世会で「琴之段」を連吟したのが最後の舞台であった。
夫人ミツとの間に亀之、貞之、泰男の三男、六女がある。
晩年は孫善政(現梅若六郎玄祥)の教育に過ごし、34年8月16日永眠、享年82歳、虚空蔵院梅光覚仙実邦大居士、海晏寺葬。正五位勲四等旭日小綬章を贈らる。

55世梅若六郎
明治40年1907年8月3日、54世梅若六郎(二代梅若実)、ミツの長男として東京浅草(浅草区南元町29番地)に生れる。
三姉・二弟(現雅俊、恭行)、三妹あり。亀之(幼名)、のち景英、六之丞、六郎(戸籍改名)を襲名する。
明治42年1月19日、52世梅若六郎(初代実)歿(81歳)。仕舞「老松」で初舞台(2歳)。
明治44年1月22日、井伊邸舞台にて「忠信」の法師役で初装束(3歳)。
大正2年1913年10月28日、伏見宮邸にて大正天皇・皇后両陛下御前能「望月」(シテ先代万三郎)で、子方を勤める(6歳)。
大正3年4月・浅草区立育英高等小学校入学。
大正4年3月21日、初代梅若実七回忌追善能で「菊慈童」初シテ(7歳)。
大正7年、浅草精華尋常高等小学校転校。10月25日、祖母ミネ(初代実夫人)歿(78歳)。
大正8年9月、厩橋能舞台落成。12月観梅問題(梅若の免状問題)持ち上る。
大正9年4月、精美尋常高等小学校高等科一年入学。
大正10年1921年4月3日、初代実13回忌追善能で「鷺」を披く(13歳)。7月観世流宗家より梅若一門破門通告を受け梅若流樹立。
大正11年3月、浅草精美尋常高等小学校高等科二年卒業(14歳)。
大正12年9月1日、厩橋舞台、震災で焼失。
大正13年4月、「望月」を初演(16歳)。
大正14年5月2日、初代梅若実17回忌追善能で「道成寺」を披く(17歳)。10月、厩橋新舞台落成。
昭和2年、大阪で「石橋ー大獅子」を初演。
昭和3年2月5日、「翁」を初演(20歳)。
昭和4年4月、区画整理のため移転した厩橋舞台新築落成披露。
昭和6年5月、梅若流謡本発行。12月10日島田秀子と結婚(23歳)。
昭和7年9月30日、長女曙子出生。
昭和8年1月1日、先代万三郎観世流復帰。3月、機関誌「梅若」創刊。3月26日「安宅ー勧進帳」を披く(25歳)。
昭和9年4月、上海で演能。同月亀之を景英に改名。5月14日、母ミツ歿(53歳) 6月2日、次女登司子出生。
昭和10年1935年3月3日、初代実27回忌追善能で「卒都婆小町」を初演(27歳)。6月17日、三女恵美子出生。
昭和11年10月、渡満演能。
昭和12年4月7日、妻秀子歿(27歳)。11月14日、「摂待」を初演(30歳)。
昭和13年8月、渡満演能。12月4日、「重荷」を初演。
昭和14年5月4日、岡村すえ(現圭子)と結婚(31歳)。
昭和15年5月5日、「鸚鵡小町」を初演。6月、満州演能。11月7日、四女喬子出生。
昭和18年7月、満州演能。11月21日景英を六之丞に改名。同年戦時行政特例法により「梅若」誌休刊。
昭和19年3月30日、父六郎隠居し六之丞家督相続して55世梅若六郎家を継承。
昭和20年1945年3月10日、東京大空襲により厩橋舞台焼失。4月9日、情報局の命により統制団体能楽協会に観世流梅若派として入会。
傘下の三役は各役の所属下に入り観梅問題解決。8月20日長男雅之出生。
昭和21年6月、京都で独演三番能を演ず。9月7日、長男雅之死亡(1歳)
昭和22年2月、東京多摩川舞台で独演三番能を演ず。10月、観梅問題(協会手続きをめぐり)再燃し演能不能となる。
昭和23年2月、GHQの勧告で三役出勤し演能を始める。2月16日、次男善政(現六郎)出生。
10月、多摩川舞台で六郎襲名披露能、55世梅若六郎となる。
昭和25年5月5日、戸籍名六郎に改名。
昭和26年4月29日、善政「鞍馬天狗」花見で初舞台(3歳)。
昭和27年3月12日、三女恵美子歿(17歳)。8月、講和条約発効に伴いGHQ勧告の無効を通告され演能不能となる。
昭和29年1954年47歳1月28日、六郎決断により観世流に復帰(46歳)。3月9日、観世復帰披露毎日能で「熊野」演能。
昭和30年1955年48歳1月29日、梅若六郎後援会発会。
昭和31年4月8日、梅若別会で「木賊」初演。10月28日、千番記念独演三番能を舞う。
11月23日、朝日五流能第1回に「八島ー弓流・素働」を舞う。以来52年第22回まで連続出勤。
昭和32年3月、社団法人能楽協会理事就任。11月7日、「船弁慶ー重前後之替・白式」で第12回芸術祭文部大臣賞受章。
12月、能楽重要無形文化財総合指定に伴い技術保持者日本能楽協会会員になる。
昭和34年8月16日、2代梅若実歿(82歳)。11月23日、山中秋の別会「大原御幸」で大阪市文化祭芸術賞を受賞。
昭和35年11月8日、「山姥ー白頭」で大阪能楽観賞会大阪府芸術祭奨励賞受章。
昭和36年、各地に於て舞台生活50年記念独演五番能を催す。4月7日、伊勢神宮に「羽衣」を奉納。
8月5・6日、梅若能楽学院会館舞台披。10月2日、梅若能楽学院開校(54歳)
昭和37年2月、長唄の吉住慈恭、地唄舞武原はんと「きさらぎ会」結成。10日第1回公演、以後2回公演。
昭和39年7月10日、著書「謡を始める人のために」を池田書店より発行。
昭和40年4月25日、梅若実7回忌追善能に「姨捨」を初演。
8月31日、ギリシャ・アテネフェスティバルに東京能楽団のメンバーとして渡欧。11月15日機関誌「梅若」を復刊。
昭和42年1月15日、日本芸術院会員に就任(60歳)。
4月2日、就任祝賀能に「鷺」、9日、雪月花三番能を舞い、以後各地に於て公演。
昭和43年6月、メキシコ国際芸術フェスティバルに能楽団の一員として参加。ニューオリンズ市名誉市民。
同月より各地で還暦祝賀能開催。11月10日、東京で「檜垣」を初演(61歳)。
昭和44年9月14日、初代実60年祭記念能に独演三番能を京都で舞い、11月9日、東京で「三輪ー誓納」を初演。
昭和46年11月14日、二代実13回忌追善能で「朝長ー懺法」を初演(65歳)。
昭和48年3月4・11日、梅若会百年祭別会を開き以後各地で行う。
11月、ビクターレコードから「梅若六郎独謡名吟集」全15巻発売(66歳)。
昭和49年9月25日、梅若六郎後援会を解消して梅若六郎鑑賞会発会。11月10日演能2千番曲祝賀能で「菊慈童ー遊舞之楽」を舞う。(67歳)
昭和50年1975年2月より二代実17回忌追善能を各地で行う。6月30日、アカデミア賞受章。11月8日、「関寺小町」を初演して現行曲全曲勤める。
昭和51年11月27日、紺綬褒章受章。
昭和52年9月、古稀祝賀能を各地で行い10月30日、東京別会で舞囃子「姥捨」を舞う。これが最後の舞台となる。
11月3日、勲三等瑞宝章受章。
昭和53年1月6日、東京女子医大付属病院に腎臓病で入院。6月14日、長女竹中曙子歿(45歳)。7月退院、以後入退院。
昭和54年1979年2月18日7時24分腎不全にて歿(71歳)。梅馨院大道徹心居士。18日付正五位に叙せらる。
# by umewakanohtheatre | 2010-12-26 00:00 | 梅若の歴史
2010年 12月 25日

梅若能楽学院会館・能楽堂を使用されたい方へ

能公演はもちろん、発表会、舞踊、演劇、朗読、撮影(CM・映画・ドラマ・ファッションカタログ・ビデオなど)、クラシックコンサートなど様々な分野の方々にご利用頂いております。ー貸し舞台・貨し劇場・レンタルホール・貸し稽古場ー
能楽以外の分野の方も皆様の舞台芸術をこの神聖な能舞台空間で体感・融合・創造発展させてみてはいかがでしょうか?
特に梅若能楽学院会館の能舞台で特徴的なことは他の能楽堂ではみられない自然光が舞台に直接入るため昼間公演では自然の光がかもし出す陰影を楽しめます。
例えばある舞台では開演後、昼過ぎの明るい日差しが入ってましたが、時間の経過とともに徐々に西日になり、物語の流れと同じく何か物寂しいやさしい光になりました。まさに舞台が自然とともに創り上げられているのを目の当りにしました。出演者、観客、舞台裏スタッフもこの自然のすばらしさにため息を付き、自然のおよびなき美しさと創造力に畏敬の念と感謝の気持ちで満たされました。
もちろんカーテンを閉め、光をさえぎることもできます!
舞台への出入り口2箇所。ひとつは、上手にある小さな「切戸口(きりとぐち)」と呼ばれる板戸。
そしてもうひとつは下手で、舞台橋掛かりからの突き当たりの「揚幕(あげまく)」と呼ばれる幕となります。能役者が面をつけ装束を調えたりする「鏡の間」から幕より出ての「橋掛り」は登場人物の通路や舞台の延長として使われる能舞台特有の演技空間。
例えば、ここを歩むことで長い旅の行程を表したり、神・霊・鬼神などが異次元からこちら側の世界へ渡る象徴的時空間といった意味もあります。
橋掛りに沿って植えられている松は、一の松・二の松・三の松でその順に小さな松になっていて、遠近感を出しています。

座席数 

正面112
正面雛壇30
正面横14
中正面42
脇正面84
脇正面桟敷21
脇正面補助席35
総計338席

原 則:
*能舞台の床面は、摺り足による歩みや舞の演技に適するように、滑らかに削った檜の厚板を用いて弾力をもたせて作られています。ですので舞台の上は白足袋に限ります。→舞台演出上足袋が不都合なときは、舞台の上にきれいなリノリウムなどをひいて頂いております。
*舞台には大道具・小道具類を置かない→舞台を痛めるような重いものは不可ですが、軽いものなら養生をして置く事は可能です。
上記の他、能舞台利用に関しての詳細・料金・時間帯などは直接お問い合わせ、お電話ください。

稽古・撮影などで、梅若能楽学院会館楽屋のみの利用も可能です。(公演などは除く)詳細はお問い合わせ下さい。
2階 
和室+敷き舞台 (和室と敷き舞台は区切ることもできます。)

和室 大

和室 小(装束の間)

3階 和室+敷き舞台ー(開閉自由な鏡があります。)

公益財団法人 梅若会〒164-0003 東京都中野区東中野2-6-14 
TEL 03-3363-7748 FAX 03-33363-7749 担当;山本まで




# by umewakanohtheatre | 2010-12-25 00:00 | 座席表 ・ 能楽堂利用について
2010年 12月 24日

梅若会出演者(シテ)紹介

梅若 玄祥(ウメワカ ゲンショウ)


重要無形文化財各個認定(人間国宝)保持者。

昭和23年 55世梅若六郎の嫡男として生まれる
  26年 「鞍馬天狗」にて初舞台
  54年 観世流梅若六郎家当主を継承
  63年 56世梅若六郎を襲名
  55年 芸術祭優秀賞
  62年 芸術選奨文部大臣賞
平成 8 年 観世寿夫記念法政大学能楽賞
  11年 讀賣演劇大賞優秀賞、日本芸術院賞 ほか受賞多数
  18年 紫綬褒章受章
  19年 芸術院会員就任
  20年12月8日、二代梅若玄祥に改名

  26年 重要無形文化財各個認定(人間国宝)

橘会主宰


角当 行雄(カクトウ ユクオ)
昭和15年12月8日生れ。
先代梅若六郎、山口直知に師事。
昭和28年初舞台仕舞「春栄」。
昭和29年 山口直知に入門。その後55世梅若六郎に師事・
昭和34年 土蜘で胡蝶にて初面
昭和39年 初シテ 田村
昭和45年 千歳 乱れ 披き
昭和46年 獅子 九番習 俊寛 披き
昭和56年 道成寺 披き
昭和60年 望月 
平成3年 安宅 披き
   11月 重要無形文化財総合指定 日本能楽会会員になる

昭和58年4月より67年4月まで能楽協会東京支部常議員を勤める。
緑鈴会主宰
角当行雄後援会発足






松山 隆雄(マツヤマ タカオ)

昭和26年5月19日生れ。先代梅若六郎に師事。
昭和39年 内弟子入門(故芸術院会員55世梅若六郎先生師事)
    9月初舞台 仕舞「猩々」
昭和40年 初面 熊野ツレ(シテ55世梅若六郎)
昭和48年 独立
       初シテ 小鍛冶
昭和50年 千歳 (翁 梅若雅俊)
       乱
昭和56年9月 石橋(梅流会)
昭和61年6月 道成寺(梅流会)
平成2年11月 俊寛

東京・山形緑隆会主宰


会田  昇(アイダ ノボル)
昭和24年3月6日 神奈川県伊勢原市生れ。
昭和39年 伊勢原中学校卒業
昭和41年 県立秦野高校卒業
昭和43年 8月 入門 55世梅若六郎に師事
昭和45年 1月 「住吉詣」にて女連 初舞台 初面
昭和47年初舞台仕舞「蝉丸」
昭和51年11月 流儀師範試験に合格 12月観世流師範となる
千歳 猩々乱 石橋 道成寺を披く
平成4年 観世流準職分となり、56世梅若六郎に師事




梅若長左衛門(ウメワカ チョウザエモン)

1956年7月8日生まれ。東京都出身
観世流シテ方。(社)日本能楽会会員。重要無形文化財(総合指定)。
日本芸術院会員二世梅若実(うめわかみのる)の孫。
三歳より父、日本芸術院会員梅若恭行(うめわかやすゆき)および伯父、日本芸術院会員五十五世(故)梅若六郎(うめわかろくろう)より指導を受け現在に至る.現五十六世梅若六郎は従兄弟。現在は五十六世梅若六郎に師事。
1960年 四歳にて、仕舞「老松」が初舞台
1968年 「小袖曾我」にて初シテ
1969年 「翁」千歳(せんざい)
1971年 「鷺」
1973年 海外公演参加(イラン・ドイツ・スイス・ユーゴスラビア)
1974年 「石橋」
1981年 「翁」
1983年 「道成寺」
1985年 「望月」
1989年 ユーロパリアジャパンベルギー公演参加
1991年 「鉢木」
1992年 フラワーアートと共演(羽衣)
1993年 梅若靖記後援会発足。公演能第1回「魂招(おがたま)」開催
1995年 「清経 恋之音取」
      「砧」
1996年 「夏休み子どもの能」(文化庁後援)プロデュース
1997年 梅若会ヨーロッパ公演(アムステルダム・パリ)
     日蘭交流400周年及びフランスにおける日本年公式公演出演及びプロデュース
      EU大使館にてレクチャー
1998年 重要無形文化財(総合指定)認定
1999年 フランスマルセイユ在住の演出家フランソワ・プザンティ氏の依頼により
      彼の劇団員と日本の俳優とワークショップを東京にて開催
      またインタビュー記事がマルセイユの新聞に大きく取り上げられた
2001年 「安宅」
2002年 新宿NSビル20周年記念イベント 能・狂言「和の伝承」総合監修
2003年 「木曽」
2004年 「卒都婆小町」
2009年 「姨捨」
梅靖会主宰
H22年12月10日、靖記 改メ 梅若長左衛門を襲名。





梅若 紀彰(ウメワカ キショウ)

シテ方観世流能楽師。 1956年9月18日、故55世梅若六郎の孫として生まれる。祖父ならびに現56世梅若六郎に師事。現梅若六郎の甥。1991年梅若雅俊の養子となる。

1960年の初舞台「鞍馬天狗」花見、初舞台
1968年「小袖曾我」の五郎。
1976年「猩々乱」
1977年「石 橋」
1982年 梅栄会を創立
1983年「翁」
1984年「道成寺」
1986年「望 月」
H22年12月10日、晋矢 改メ 改メ 二代 梅若紀彰を襲名。

古典はもとより新作能にも積極的に取り組み、また海外公演にも数多く参加するなど、幅広く活躍している。 その端正な面立ちから能楽界の貴公子とも言われ、2001年・2003年『伝統芸能の若き獅子たち』ではリーダー格を務めた。600年の歴史を誇る梅若家において、現当主梅若六郎と共に中心をなす。重要無形文化財総合指定保持者、梅若会理事。梅栄会主宰

「夢とわたりき」〈著者 正井 姈 発行所 不識書院〉のなかで詩に詠まれてます。
 芭蕉葉の破れて残る立ち姿 一切空と冴ゆるたまゆら
『芭蕉』シテ 梅若 晋矢師を観て

 薔薇のしづく咽喉に触れしか君の声トリスタンとイゾルデ
『創作能ポール・クローデルの詩による 薔薇の名ー長谷寺の牡丹』
クローデルの足跡を訪ねる詩人 梅若 晋矢師を観て





山崎 正道(ヤマザキ マサミチ)
昭和38年8月3日生れ。
昭和41年 初舞台
昭和53年 石 橋
平成2年 猩々乱
平成6年 道成寺など

昭和57年 56世梅若六郎に入門師事
平成元年 観世流準職分に認定
平成17年 重要無形文化財総合指定に認定
東京、秩父、久留米、山形などに稽古場を持つ
緑英会主宰





小田切康陽(オダギリ ヤスハル)
昭和40年2月10日福岡生れ。
祖父小田切悟陽に師事。
昭和44年 「猩々」仕舞初舞台、「邯鄲」「船弁慶」など子方を務める
昭和58年 上京
現梅若六郎の下、内弟子入門
平成5年 「石橋」、「猩々乱」を披く
平成7年 独立
平成10年 「道成寺」を披く

重要無形文化財(総合指定)保持者

東京、浦和、館林、小倉、広島、福岡、佐世保などに稽古場を持つ。
緑滄会主宰





角当 直隆(カクトウ ナオタカ)

昭和43年9月26日生まれ。
能楽協会会員。緑皇会主宰。川崎市在住。
能楽師である父、角当行雄の元、4歳より子方として舞台に立つ。中学までは能楽師への道を歩んでいたが、本当に自分は何をやりたいのかと考えるようになり、高校3年間は全く能の世界には触れなかった。しかし、この空白の3年間で別の世界を見たことにより、改めて能楽の世界が好きであることに気付き、高校卒業間近に、父親に「梅若六郎先生の下で修行させて頂きたい」と相談し、高校卒業後、昭和62年入門。56世梅若六郎師に師事。
平成7年独立。
昭和47年初舞台、仕舞「老松」。52年初シテ「菊慈童」。
披き昭和57年「石橋」。平成8年「猩々乱」。平成9年「千歳」。
平成12年「道成寺」。平成16年「望月」。平成17年「俊寛」。平成19年「翁」。

重要無形文化総合指定保持者。




山中 迓晶(ヤマナカ ガショウ)
昭和45年1月14日生れ。父山中義滋、現梅若六郎に師事。
山中義滋(重要無形文化財総合指定)長男。
昭和47年、2歳で初舞台「老松」。幼少より子方として舞台に立ち現在に至る。
平成5年より2年間、京都造形大学の非常勤講師を務め、同大学に初めて能学部をつくり、生徒と共に学園内での公演などを行う。平成7年、梅若 六郎家に入門し4年間の修行期間を経、平成11年春、卒業する。
現在、能の公演以外にも、「能へのいざない」と題して、誰にでも解りやすく能を紹介するレクチャーを数多く催している。
また、幼稚園・小中高・大学や専門学校での講座も積極的に行っている。
緑蘭会(りょくらんかい)主宰。

重要無形文化総合指定保持者。





松山 隆之(マツヤマ タカユキ)昭和50年12月6日生れ。
松山隆雄の長男。現梅若六郎に師事。
昭和53年初舞台仕舞「老松」。
  6月(2歳) 初舞台・能「鞍馬天狗」(花見稚児)
平成6年4月(18歳)五十六世梅若六郎師に師事、内弟子入門
平成10年11月(22歳)初シテ・能「経政」
平成14年1月(26歳)披・千歳(翁・ツレ)
   同年12月(27歳)内弟子修了、独立
平成15年5月(27歳)披・石橋(赤獅子)
   同年9月 観世流準職分認定  
平成18年5月(30歳)披・猩々乱
      7月 緑翔会発足 「日々是能日」発行
平成21年11月 披・道成寺
稽古場所案内
東中野・相模原市・水戸市・福島県白河市・東急青葉台BE(カルチャーセンター)・千葉市





川口 晃平(カワグチ コウヘイ)
昭和51年生れ。現梅若六郎に師事。
平成13年入門。平成13年初舞台復曲能「降魔」
平成19年12月 独立能「石橋」
平成22年1月 「猩々乱」を披く











土田 英貴(ツチダ ヒデタカ)
昭和45年7月10日 東京生れ
父・晏士(きよし)及び
五十六世梅若六郎(現・玄祥)に師事。
初舞台 昭和49年「鞍馬天狗」花見。
初シテ 平成21年「金札」。






女 流 


高橋 栄子(タカハシ エイコ)


富田 雅子(トミタ マサコ)
能楽歴35年。昭和48年に梅若能楽学院に入学。54年卒業。平成2年に観世流師範に認定され17年に観世流準職分となる。
 40歳からプロになり、数々の梅若会の舞台を経験。学院卒業後は梅若教授となり、学院で指導を続けるほか、個人指導も行っている。現在も、梅若会、緑華会能の会(後援会)にて年1,2番の能を舞う。
情景がいきいきと思い浮かぶ、日本語の言葉の力とリズムを大切にする授業で、能楽の魅力を伝える明るい先生。

~主な能の舞台歴~
昭和57年「猩 々」初面
平成2年 「乱」披き
平成6年 「石 橋 大獅子」披き
平成13年 「道成寺」披き
他 「山 姥」「弱法師」「花 筐」「藤 戸」など数十番


山村 庸子(ヤマムラ ヨウコ)
昭和23年生れ
昭和47年 福岡にて観世流シテ方鷹尾祥史師に入門
昭和53年 上京し梅若六郎師に師事
昭和63年 観世流師範となり梅若会に所属
平成元年 初シテ「花月」
梅若女流にて「殺生石」「船弁慶」「井筒」など
緑桜会主宰
「声の道場」主宰

三吉 徹子(ミヨシ テツコ)

鈴木 矜子(スズキ キョウコ)

佐賀県武雄市生まれ
東京都八王子市在住
能楽協会会員
梅若能楽学院講師
緑風会主宰
「能を楽しむ会」主宰

昭和36年 高尾唯吉・強(後 祥史)に師事
昭和48年 土田清(現 晏士)に師事
平成13年 五十六世梅若六郎(現 玄祥)に師事

演能歴
「葵上」 「忠度」 「山姥」 「井筒」 「藤戸」 「隅田川」 「松風」 など

寸言 : 男性による能が主流の中、女性のもつ繊細な感覚を生かし、しかもそれに力強さを加えた、究極の女性の発声法を追求する一方、相手の心に響く自然体の表現法を求めて模索し続ける毎日です。


伶以野 陽子(レイヤー ヨウコ) 

五十六世梅若六郎師(現 梅若玄祥師)に師事
平成16年1月 内弟子入門
平成22年 観世流シテ方師範免許取得
公益社団法人能楽協会正会員東京支部シテ方観世流

平成24年 初シテ 「羽 衣」
平成25年 「清経」
平成26年 「殺 生 石」

緑 耀 会 (ろくようかい)主宰

梅若能楽学院会館楽屋教室、下北沢などのお稽古場にて能楽教室開講中
能楽レクチャーなど(英語も可)
西新宿カルチャープラザ 講師

香川県出身
香川大学教育学部附属高松中学校卒業
香川県立高松高等学校卒業
東京学芸大学教育学部卒業 小学校教員免許取得
# by umewakanohtheatre | 2010-12-24 00:00 | 梅若会シテ方
2010年 12月 21日

場所・連絡先

チケットのお申し込み、公演のお問合せ、当会館のお問合せ等は下記へお願い申し上げます。
公益財団法人 梅若会
〒164-0003 東京都中野区東中野 2-6-14
電話03-3363-7748 FAX03-3363-7749
umewakanohtheatre@excite.co.jp
梅若会の携帯blogアドレス
http://mblog.excite.co.jp/user/umewakanoh/




JR線
総武線・東中野駅西口 徒歩8分
地下鉄
大江戸線 東中野駅 A3出口
大江戸線 中野坂上駅 A2、2出口
丸の内線 中野坂上駅 A2、2出口
いずれも徒歩8分
バ ス
関東バス 新宿西口 → 野方行(宮下交差点下車)宿05 中野駅経由
関東バス 野方 → 新宿西口行(東中野2丁目下車)宿05 中野駅経由
京王バス 渋谷 → 中野駅南口行(宮下交差点下車)渋64 中野坂上経由
京王バス 中野駅南口 → 渋谷行(東中野2丁目下車)渋64 中野坂上経由
梅若能楽学院会館には駐車場はございません。
電車、バスをご利用下さい。

JR東中野から
西口改札を出て右手方向に行きながら山手通りに出る。
先ず横断歩道を渡り左手に山手通りを進む。
歩いて7,8分ぐらいで、右手に青い建物の頂上にLIONという看板が見えると、このビルの隣がメキシコ料理店、材木店と続き、この横が梅若能楽学院会館の入口。
入口はコインパーキングになっていて、このパーキングを右に入っていく。
奥の正面に門があり民家が見えるがその横が能楽堂です。

丸の内線・大江戸線 中野坂上より
A2の出口を利用。地上に出るとそこが山手通り。左手に7,8分歩き進む。
ミニストップを通り過ぎ大久保通りとの交差点を渡る。そこからまた一本道を通り越すと車のコインパーキングがみえる。そこが梅若能楽学院会館の入口。左手に折れ、コインパーキングの中を通って歩き進む。奥の正面に門があり民家が見えるがその横が能楽堂です。

# by umewakanohtheatre | 2010-12-21 00:00 | 会館案内 ・ お問い合せ
2010年 12月 19日

あ行

「井 筒」いづつ
奈良七大寺を拝み巡った旅僧(ワキ)が、在原寺に立寄った。ここは昔、在原業平が紀有常(きのありつね)の娘と共に住んだ旧跡だから、僧は夫婦の跡を弔う。そこに若い女(シテ)が古井戸の水を汲んで古塚に回向していたが、声をかけると業平の故事を語った。
昔業平はここ石上(いそのかみ)に紀有常の娘とむつまじく住んだが、別に河内の高安にも忍んで通った。妻は夫の身を案じて「風吹けば沖つ白波龍田山夜半にや君のひとり越ゆらん」と詠んだので、業平もその後は河内へ行かなくなったものだ。
 この二人は幼な友で、ずっと以前は板囲いの井戸に並んで遊んだ。長じてから男は「筒井筒井筒にかけしまろが丈生ひにけらしな妹見ざるまに」と詠み、女は「くらべこし振分髪も肩過ぎぬ君ならずして誰かあくべき」と返歌した。そうした話の末に、自分こそ井筒の女、その時の娘だと身を明かして、薄(すすき)生(お)う井筒の陰にその姿は見えなくなった(中入)。
 僧が一夜をこの寺に過すと、夢中にさきの有常の娘の霊(後シテ)が今度は業平の形見の冠や直衣(のうし)を身に着けて現われる。思い出を口ずさみながら女は美しい舞(序ノ舞)を舞い、井戸に袖をかけて昔のようにのぞく。すると今は業平の衣を着ているから業平その人にみえてなつかしさはひとしおである。しかし夜明けごろ、僧の夢はさめて女の姿はかき消える。


「梅 枝 越天楽」 うめがえ
~平成21年4月18日京都観世会館「京都春の梅若能」にて梅若 玄祥が能 梅枝 越天楽を演じた。当日出された梅若玄祥解説文より抜粋~
この梅枝の越天楽という小書は舞の部分が盤渉調になるという特色があります。
これは二代実の創作によるもので、永らく絶えておりましたが、父五十五世梅若六郎が40年ほど前に復活させ上演いたしました。以降3,4回の演能を重ね、近年では私が国立能楽堂で、初めて越天楽を演能させていただきました。
 さて、前場はさほど変わりはありませんが、終始作り物の中に居て、中入り前に作り物よりいで、中入りとなります。
後場の装束は長袴をはき、長絹または舞衣をつけ鳥兜をかぶるという姿です。
後の型そのものは常とあまり変わりはないのですが、前述のように舞が盤渉調になるものの、富士太鼓の現之楽のように緩急の変化があまりなく、しっとりとした舞となります。
キリは謡のうちに幕に入ります。このように全体を通しては際立った変化はありませんが、この曲は愁傷の心持を表に出した演出となります。この盤渉調という調子が夫への恋慕の情をかきたてるようになるのではないでしょうか。
皆様はどのようにお感じに頂けますでしょうか? 

「江 口」 えぐち
 諸国一見の僧(ワキ)が天王寺参詣の途中、摂津の江口の里に来た。ここは昔船着場として栄え、多くの遊女のいた所である。かつて西行法師がここで一夜の宿を求めたのに承知してもらえず「世の中を
厭ふまでこそ難からめ仮の宿りを惜しむ君かな」と詠んだことを思い出して、僧がふとそれを口ずさむと、ちょうど来かかった里の女(シテ)が、私は惜しみはしなかったのですと答えた。ただ、色好みの宿に世捨人が立寄るのはどうかと思ったから「世を厭ふ人とし聞けば仮の宿に心留むなと思うばかりぞ」と詠んだのです。自分はその時の遊女の幽霊なのです、といいすてて、女の姿は消えた(中入)。
 僧が今の幽霊を弔おうとしていると、不思議なことに月の澄み渡った川に遊女達(シテとツレ二人)の謡いさざめく声が聞えて、江口の君の川逍遙の夜舟が見えてくる。それはその昔の遊女達の、嘆きの歌声である。盛粧は春の花の散り、秋の紅葉の朝霜に色あせるようにはいかない。しかも遊女は美しい袖をひらめかして舞う(序ノ舞)。
 迷いはこの仮の世に心を留めるからである。そう詠んで人をいさめた自分だ、さあ妄執を去ってもう帰りましょうといったかと思うと、遊女の姿は突然普賢菩薩に変り、舟は白象となり、光明を放ってそのまま白雲に乗り、遙か西の空へと行き給うのであった。


「 翁 」 おきな
今でも諸能の冠頭に演じられるものながら、構成等は全く他の能一般とは違って天下泰平国土安穏を祈祷する一種の祭典であり、遠く原始申楽から伝わった、舞台の浄めである。
翁(シテ)、千歳(ツレ)、三番叟(狂言方)の歌舞からなっているが、歌詞はめでたい断章をを綴っているので、一貫した意味がない。いわば囃詞を見るべきで、この詞章を特に「神歌」とも呼んでいる。また異式の演出も多いが、普通に行われているものは「四日之式」といわれる形式である。江戸時代の勧進能の日数は貞享のころまでは四日間であったのが、寛延以来は十数日に及び、四日目以降はすべてこの四日目式で通したためといわれる。
上演以前に別火(べっか)斎戒した演者は、当日楽屋に設けられた祭壇の神酒をいただき面箱持(狂言方)を先立ててシテ、千歳、三番叟、囃子方、地謡方、狂言後見の順に登場する。シテは正面先で恭しく敬礼し、地謡座前に着座する。面箱持はその前で面箱をひらき、地謡方は囃子方の背後に居並ぶ。すべて最高の礼装である。笛が吹出し、小鼓三丁の連調の手を聞いてシテは謡い出す。千歳の舞の間にはシテは自ら面を付けて出、謡あって神楽を舞う。済んで面を脱ぎ、再び礼をして退場する(いわゆる翁帰り)。あとは三番叟の舞となる。



# by umewakanohtheatre | 2010-12-19 15:23 | 曲解説
2010年 12月 18日

か行

「通小町」 かよいこまち
比叡山の西麓、八瀬の山里で夏季三ヶ月の籠居精進をしている僧があった。そこへ毎日木の実や薪を届けてくる女があった。僧が、問答の末に名を尋ねると、女は小野小町の化身であることをほのめかし、姿を消した。
市原野に赴いた僧が、熱心に経文を唱えていると小町の霊は回向を喜んで再び姿を見せた。しかし、その後方には痩せ衰えた物凄い、もう一人の亡霊があって、「小町を弔ってくれるな、お僧はどうか帰ってくれ」とうめく。その上小町の袂にすがるところをみると、これはまさしく深草少将の怨霊である。
生前、「百夜通えば」という小町の言葉通り毎夜通い続けた少将は、九十九日目に思いを果たせぬまま死んでしまったのであった。そういって怨霊は生前の百夜通いの様を示していたが、僧の回向によって、やがて二人の霊は合掌してともどもに成仏してゆく。

「清 経」 きよつね
左中将清経は筑紫の戦に破れ、平家再起の望みを失って、雑兵の手にかかるよりはと思ったのだろう、豊前柳が浦の沖でで夜舟から身を投げて自殺した。
家臣の粟津三郎は舟の中に遺された鬢の髪を持って都に上り、清経の妻を訪ねて最後の様子を語った。妻は戦士か病死ならばともかく、自ら入水して果てた夫を怨んで歎いたうえ「見るたびに心尽くしのかみなればうさにぞ返すもとの社に」と詠んで、思い寝の夢になりとも逢いたいと願いつつ涙ながらにまどろんだ。するとその心が通じたものか、清経の亡霊が夢中に現われた。折角見よと贈った形見を返したいとは不実ではないか、と霊はいい、妻は夫の自害をせめる。そうしているうちに、夫はそれまでの有様を語って怨み心を慰めようと語り出す。
幼帝安徳天皇の一行が宇佐八幡御参詣の時、人々の祈誓のかいもなく「世の中のうさには神もなきものを何祈るらん心づくしに」との神託があったので、この上はとても長らえられない身と覚悟して、とうとう身を投げたのだ、そう詳細な仕形話で語った霊は、しかし突然に修羅道の苦しみをみせる。雨は矢となり、土には劔が林立する恐ろしい様子であるが、実は最期の時の心乱れぬ念仏のために、成仏得脱することができたのであった。

「小鍛冶」 こかじ
不思議なご霊夢をうけさせられた一條院は橘道成(ワキヅレ)を勅使として三條の小鍛冶宗近(ワキ)の私宅へつかわされた。御劒を打てとの御下命なのである。宗近が思うのに、このような大事には自分に劣らぬ相鎚の者が必要であるのに、それがいない。神力を頼む他に法がないので、氏の神である稲荷明神に参詣した。
ところが路に不思議な童子(シテ)がいて、宗近を呼びとめ、御劒を打つべき命をうけたであろう、苦しむことはないといい、和漢の名劒の威徳を語り、日本武尊が草薙の劒をもって東夷を平らげた故事をも語る。その上、家に帰って用意をすればその時自分も通力の身を変じて汝を助けようといったと思うと、夕雲の稲荷山にその姿を消した。(中入)
 驚いて帰った宗近が祭壇を築いて肝胆を砕いて祈願すると、稲荷明神(後シテ)が童男の姿で出現し給うた。喜ぶ宗近が教えの鎚をはったと打つと、明神も従ってちょうと打つ。こうしてたちまち御劒は打ち上がったが、表には小鍛冶宗近、裏には相打ちの小狐と銘がうたれ、御劒は勅使に捧げられたのである。これが天下第一の二つの銘の御劒で、これによって四海を治めれば五穀成就は間違いない。明神はそう告げるとまた叢雲に飛び乗って稲荷山へと去ってゆかれた。





# by umewakanohtheatre | 2010-12-18 15:26 | 曲解説
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